バヌアツ訪問記その3

イザベラ・バード
明治初頭に日本の奥地を旅した一人の女性がいる。その人の名はイザベラ・バード。生来身体が弱くある時医者から転地療養を勧められ旅行を始めることになった。そして彼女は47歳の時に来日し、まだ江戸時代の面影を残す日本の奥地、東北や北海道を旅するのである。それも徒歩にて、あぶなっかしいまだ18歳の日本人通訳兼ガイド一人だけを付けて。勿論、彼女以外にほかの外人はいない。現代人の私たちの感覚からすれば、これは想像を絶するような探検旅行であり、その苛酷さを思えば私のバヌアツ訪問などはお話にならないくらいちっぽけなものである。そんな彼女が、この体験を「日本奥地紀行」にまとめたなかで終始語っているのが、日本人の「礼儀正しさ・優しさ・親切さ」に触れ、直感的に人情の美しさを感じ取っている点である。 実は、毎回バヌアツを訪れた際に、ある種なんとも表現のしがたい「なつかしさ」のようなものを感じていた。いま思うに、たぶんイザベラ・バードが日本人から受けた印象と同じようなものではないかと勝手に想像するのである。つまりは、日本人が忘れてしまった「日本人らしさ」である。これは、恐らく西洋文明が流入し経済発展を遂げた国において受ける万国共通の感覚的欠落なのではないだろうか。
確かに文明の利器が入ることで生活は豊かになるが、その代償に失うものがあるのも事実だ。しかし世界のどんな辺境の地であれ、この流れは止めることはできない。グローバルな経済はいろいろな国のありとあらゆる隙間に入り込んできている。厄介なのは、物質的な豊かさは目に見えるものが多い反面、失うものには目に見えないものがあり、静かに音もたてずに消えて行くという点だ。情けなくも、こんな些細な体験からかくも受け止めがい事実を突き付けられ、あらためて「こと」の重大さに愕然とするのである。当たり前のことが知らずのうちになくなってしまうことの恐ろしさを感じずにはいられない。 ところで、ドイツ人青年から投げかけられたあの鋭い質問「果たして彼らに西洋文明を持ちこむことが支援になるのだろうか」に対しての私なりの答えはこうだ。

子供たちに世界をみる「窓」を
世界のどこにいようが、このグローバル経済のある意味「津波」にも似た影響を回避することはできない(携帯電話がいい例)、早晩その日はやってくるのだ。100年以上も前にイザベラ・バードが目撃した、日本の鎖国が破られ西欧化が始まったその様が、いまだに世界の辺境で繰り返されているわけである。あの鎖国に近い状況のブータンでさえ、その変化は少しずつ起こっていると聞く。であるならば、どうやってその流入を防ぐかではなく、どうそれを受け入れるかが問題となってくる。その鍵は「教育」にある。その価値判断をするためにもまずは世界を知ること、開国前夜に多くの日本人が欧米を視察に法を犯してまでも出かけ初めて日本を外から見て理解したように、自国が置かれている状況を把握することにある。そして、われわれもそうであったように西洋文化に憧れを持ち少しくらいカブレてもよいが、やはり自分たちの独自性を認識することがことさら必要に思われる。伝統文化を継承しつつも、受け入れるべきものは受け入れ、そうでないものはきっぱりと断る、そんな態度が取れるようになることを願うばかりである。それには「世界を覗く窓」がどうしても必要になる。実は今年2月の訪問時に学校の校長先生からお願いされていたのは、ネットが通じる環境を整えてくれというものだった。電話回線が来ていないので、パラボラアンテナでも設置しない限り不可能で今回は見送ったのだが、それは「子どもたちにもっと世界を見せてあげたい」という先生達の希望からだった。もちろんパソコンの「窓」からである。しかし、誰もが気づいているように知識偏重の教育での弊害はわれわれも経験済みで、如何に正しい考え方ができるか、どうやって自分たちのアイデンティティーを構築することができるかにかかっている。たかだかパソコンの寄贈ぐらいで、そんな先の大それたことまで考える事はないと言われればそれまでだが、あのきらきらと輝く瞳の行く末はどうしても気になって仕方がない。

異なる文化と触れ合うことで

イザベラ・バードの素晴らしい点は、その行動力は言うまでもないが、彼女の視点に先入観や自分のキリスト教的価値観に囚われるところなく、素直に触れた物事についてナチュラルで鋭い感性をよりどころとして評価しているところだ。そのために旅行中は英国とは全く違う風俗慣習のなかで努めて日本人と食生活をともにし、同じような生活体験を重たうえで、日本の素晴らしいところは評価し、そうでないところも指摘している。そういう意味においては、異なった文化を受け入れる態度が彼女の秀でた資質としてあったと感じられる。比べるのもおこがましいがそんな才能もなく、無意識ではあるにせよ気がつけば色眼鏡をとうしてバヌアツを見ている自分に「はっ」とすることしきりである。 こうして考えてみると、自分が支援に行っているのか、はたまた支援されているのか、はなはだ疑問になってくる。まあ、そうやって内なる世界にバランスを保たせるのも、現代社会に毒された私にとっては、良いリハビリになっているのかもしれない。 いくつまで続けることができるかわからないが、とうぶん私のバヌアツ通いは終わりそうにない。

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写真 : バヌアツマーケットの様子


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by flora240 | 2011-02-20 13:32 | バヌアツ

バヌアツ訪問記その2

カルチャーショック
だれにでも少なからず、一つや二つカルチャーショックの体験はあるはずだ。私の場合、30年前に訪れたバリがそうだ。それまでにも海外旅行の経験はあったがそれはアメリカであって、まだ西洋文明に浸食されていないところへ行くのはそれが初めてだった。その頃のバリは今とは全く違っていた。まず、クルマはほとんどと言っていいほど走っていなかった。もちろんレンタカーなどあるはずもなく、当時は個人が所有するバイクを交渉して貸してもらい交通手段にしていた。小さなバイクに家族4人が乗っている光景なぞはざらだった。なにもかもがのんびりしていて、「昔の日本はこうだったんだろうな~」、と思わせるような美しい田園風景がただ広がっている。が、しかしそれでいてケチャックやガムランに代表されるように伝統的文化レベルは非常に高い。 その後も海外には幾度も足を運んだが、その時に感じたほどのものを経験することはなかった。そして6年前に初めてバヌアツを訪れたときに、なんだか怪しくも懐かしい気分に浸ることができたのは、あの時の体験があったからだと今になって思ったりもする。

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村にパソコンを
そんな感情を抱いたところにもう一度行く機会ができたのは、3年前のことである。 1回目の訪問の時に偶然紹介された小学校の校長先生からパソコンの支援をお願いされたのだが、如何せんあまりにも遠い。送ろうにも直通の貨物便は運航されていなかった。そんななか、またオーストラリアの姉妹クラブより、前回の診療所にほど近い、別の診療所の増築をする手伝いの依頼が舞い込んだ。ありがたいことに小学校のある場所と同じ村だ。まずは小学校の状況を先発隊のオーストラリアチームから伝えてもらうことにした。残念ながらやはり電気は来ていないらしい。電気が来ていなければどうしようもない。途方に暮れていたところ一筋の光が差し込んだ。聞けば今回の診療所の増築に合わせソーラーパネルを設置するとのこと、これに乗らない手はない。早速、小学校の屋根にソーラーパネルを設置し、その発生した電気をトラック用のバッテリーに蓄え、インバーターを介してパソコンに送るという計画を立てた。これなら電気が来ていなくても大丈夫、あちらは常夏、太陽の光がいつもサンサンと降り注いでいるに違いない、と勝手に想像が膨らんでいく。うまいこと計画はたったが、問題はどのようにして運ぶかだが、ここはオーストラリアのチームに頼みソーラーパネルはお願いすることにして、われわれは、中古のパソコン2台を自分のもののような顔をして持ち込み、帰りは手ぶらで戻ってくることにした。バッテリーは重いので、当然現地調達である。 村に到着し診療所を訪ねると、工事の方はまだ遅れ気味のようである。早速小学校に行ってみると全校生徒が集まっていて、生花で作ったレイを首にかけてくれ歓迎してくれた。あまりの歓待ぶりにびっくりするやら恥ずかしいやら。しかし、やはりうれしいもので遠くまで来たかいがあったとみな感動する。(今回は天国に一番近い島のニューカレドニアを経由してバヌアツに入った)小さな板張りの土間のランチルームに100人ばかりが集合しすごい熱気である。ガラスの窓などはなく、板窓をつっかえ棒であける程度なので中は薄暗い、そんななか大きな瞳だけがぎらぎらと輝きこちらを凝視している。みんな見慣れない、もしかしたら初めて見る日本人に興味津々といったところだ。今回はパソコンの設置だけではなく、前回同様に古着のTシャツや文房具もたくさん持ってきたのだが、せっかくなので日本文化の紹介も兼ねる意味でゆかた(娘のおふる)も持って行き子どもたちに着せてあげた。その時の、はにかんだかわいい笑顔は今も記憶に新しい。そして折り紙を教えたり竹とんぼで遊んだりと、あっという間に時が過ぎ、しばし子どもたちと楽しむことができた。そのあとは汗を流して計画どおりパソコンを2台設置することができ、先生方にもたいへん喜んでもらった。いくつかの英語の教材もインストールしたが、これからどんなふうに使われるのか楽しみである。

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写真 : 村にプロジェクターを寄贈

村での歓迎
昼食は村の女性たちが地元の料理を作ってくれていたのだが、これがどうしてなかなかいける味である。ハエがたかるのは今ひとつだが、タロイモやサツマイモをココナッツミルクで煮込んだものは本当に美味しかった。しかし、なぜか不思議にもそこには炊いたご飯が洗面器にいっぱい用意してある。ここにきて田んぼなんか一枚も見ていなかったので聞いてみると、米は中国からの輸入米でこちらでは最近一般家庭でも食べるそうだ。

文明開化
実は今回、とても信じがたい光景を目の当たりにし、わが目を疑った。前回は島の中心部でしか電話は通じず、もちろんこの村にはあるはずもなかったのだが、なんと3年のうちに携帯電話が普及し始めていたのである。これにはいささか驚いた。確かにテレビでアフリカのマサイ族が荒野の中で民族衣装を纏い携帯電話を操っている場面に出くわしたことがあるが、まさにそれと同じ現象がここバヌアツでも起きていたのである。機種は電話だけのオーソドックスなもので大きな画面も付いておらず形も小ぶりのものだ。そういえば、町には赤いパラソルに女の子がひとりぽつんと座っているのを見かけ不思議に思っていたが、実は携帯の充電屋さんだったのである。まだ実際に持つことのできる人は限られているとはいえ、アンテナを1つ建てさえすれば良いので、あっという間に広まってしまうのだろう。バリなんかに西洋文明が入ってきたのとは比べ物にならない速さで、今後この島にも良しにつけ悪しきにつけいろいろなものが入ってくるように思われる。それはもうだれにも止めることができない事実なのである。町のレコード屋の店先においてある音楽ビデオを流している小さなテレビの前には、若い人が黒だかりなのだ。 村を後にして帰路、町のホテルに宿泊した時のこと事だが、偶然ドイツ人青年に知り合ったのだが、なんでも結婚を間近に控え独身最後の一人旅なのだそうだ。お酒も入り仲良くなったそんな彼から投げかけられた質問がこれだ。「果たして彼らに西洋文明を持ちこむことが本当に彼らの支援になるのだろうか?」というものである。咄嗟のディープな投げかけに一瞬戸惑ったのも事実だが、下手な英語も災いし、ちゃんとしたこちらのスタンスも説明できなかったのもまた事実である。そしてこれ以後このことがずっと頭の片隅から消えなくなってしまった。だってこの島は今でも「世界でいちばん幸せな国」なのだから。  つづく



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by flora240 | 2011-02-20 13:28 | バヌアツ

バヌアツ訪問記 その1

バヌアツってどんな国?
2月2日の朝、私は南太平洋に浮かぶ小さな島の空港に降り立った。雨上がりの滑走路を歩いていると湿ったなま暖かい風が頬をなでる。今回が私にとって3回目の訪問となるこの国の名前はバヌアツ共和国、南北にわたる83の島々からなる人口わずか24万あまりのメラネシアに属す小さな島国である。 この聞きなれない国の場所は、と言うと、南にニューカレドニアと東にフィジーと言えばなんとなく想像がつくかもしれない。主な産業は農業と観光、といっても農村部ではコプラ(ココヤシの果実の胚乳を乾燥したもの)の生産があるが、ほとんどの島民はほぼ自給自足の生活である。公用語はビスラマ語、英語、仏語の3つだが、地方の言葉は100以上存在する。ビスラマ語が普及する前は他の島の人との疎通ができず、そのため絵文字文化が生まれたという。しかしながら、なじみがないようで「バンジージャンプ発祥の地」「世界で一番幸せな国」というフレーズを聞けば思いつく人もいるだろう。 富山からは飛行機を4回乗り継いでその飛行距離およそ1万キロ、そんな最果ての地にも思われるこの国を訪れるきっかけとなったのは、今から6年前のことである。

バヌアツ訪問のきっかけ
私が属するあるクラブの姉妹クラブがオーストラリアにあり、そのクラブがバヌアツで一番大きな島であるサント島の奥地にある小さな村に、診療所を建てるので協力してくれないか、と頼まれたのが事の発端である。  

バヌアツに到着して
最初に訪れた時は真夜中、飛行場をでるやいなや漆黒の闇に包まれた時は「とんでもないところに来てしまった」という感が一気にわいてきた。でこぼこ道を、もうとっくにお目にかからない日本製のおんぼろ車におしこめられ、窓から入ってくる湿っぽい夜風に吹かれながら、聞こえてくるのは茂みの中からの不気味な犬の遠吠えだけである。一夜あけると、昨晩の不安も解消。そこには朝の長閑な、田舎の風景が広がっていた。しかし人々の顔が茶褐色の国は初めてで、よく見ると行きかう人の中には裸足の人も大勢いる。服装はTシャツにズボンが一般的で、民族衣装らしきものは一切見かけない。(今回のわれわれのワゴンの運転手も裸足であった。)  

いよいよ目的地の村まで
目的地の村までは空港から100キロあまり。中心地から離れればもう何もないので、まずは買い出しである。ペットボトルの水を1ケースとあとは・・・と言いたい所だがとくに買うようなものはない。大きな市場が開かれているので覗いてみる。ここならではの熱帯の産物がところせましと並んでいるが、大きな「こうもり」も売っている、聞けば食用だそうだ。わずか100メートルほどのメインストリートを抜けると、ほどなく道の両側はヤシの木やジャングルとなる。交通量は全くと言っていいほどないのだが、奈何せん道路は舗装されておらず、あちらこちらに大きな穴があいていてスピードは出せない。それどころか穴を越えるたびに、頭をクルマの天井に打ちつけそうになる。目に入るのは空の青と森の緑だけ。なぜか落ち着いた気分になるのは、この単調な風景と時折見かける村人がにこやかなせいかもしれない。約2時間余りかけようやく目的地に到着する。  

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村の生活
村の小さな診療所には、そこを管理する看護師さんと村人たちが食事を用意して待っていてくれた。この島には常駐の医師がおらず、ここは言わば助産院のようなもので、10キロ以上も離れたところからお産が近づいた妊婦たちが歩いてやってくるところなのだ。かつての日本でもそうだったように、新生児の死亡率が高いことが窺われる。用意されている医薬品は、3種類ほどの抗生剤と鎮痛薬などごく僅かだが、もちろんマラリアの薬はおいてある。 診療所の視察もほどなく終え、年配の女性たちが輪になってバナナの葉で家の屋根を編んでいるのを見ていると一人の女性が近寄ってきた。そして自分がこの村の小学校の校長であることを告げると、できる事ならば子どもたちの学習の支援をしてもらえないかと切り出された。この小学校には約100人の生徒がおり、寄宿舎もある。しかしながら、一か月1000円にも満たない学費が払えず途中でやめざるを得ない者もいるという。そういったなかでも上の学校に進もうとする生徒もいるわけで、教科書も満足に行き渡らないにもかかわらず、もはやコンピューターに触れておくことは必須だという。だが、電気はおろか飲料水も雨水を利用している有様で、基本的なインフラは一切整備されてない。何とか役に立ちたいのは山々だが、「一体どうしたものだろう・・・」という想いが頭を過ぎる。まさかこれがきっかけでこの後も訪問することになるとは、この時は夢にも思っていなかった。(つづく)
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by flora240 | 2011-02-20 13:14 | バヌアツ