2017年 01月 04日
バヌアツ訪問記2016 しなやかなこころ
次第に降下をはじめると、椰子の木々が風になびいているのがわかる。
もうそろそろ着陸か、と思った瞬間「ドーン」と大きな音が響き、機体が大きく上下にバウンドし椅子から腰が浮いた。
無事着陸、一瞬の静寂のあと機内から拍手が起こる。
風に煽られたのか、ちょっとしたハプニングだった。
タラップを降り滑走路を歩き始めるや否や、じとーっとした湿気が身体にまとわりついてきた。
気温30℃ 、湿度80%以上の熱帯雨林気候がもたらすこの肌の感触が、バヌアツに来たことを理解させてくれる。
これで5回目、10年間にわたりよくもまあ飽きずに来たものだ。変なもので、「来た」と言うよりは「帰った」に近い感じがする。
もちろん、日本とは気候、風土も違う全くの異国なのだが、不思議にも違和感がない。
回を重ね当初の感激も薄らいだせいなのか、自然体でいられる。
過去3回の訪問では、小学校へのパソコン寄贈とそれに伴うソーラーパネルの電力システム の設置が主な活動だった。
これはこれで大変喜ばれた。
しかし今回は違った支援をしようとずっと考えて来た。
どちらかと言うと、今までは「モノ」の支援が多かったのだが、それを「コト」の支援に切り替えて見たいと思ったのだ。
それも、片側通行ではなくバヌアツと日本の双方向に働きかける支援事業を。
バヌアツは2006年、イギリスのシンクタンクによって「世界一幸せな国」に選ばれたのだが、 なんとその時の日本はというと世界178ヶ国中95位と低迷。
物質的な豊かさから言えば、国民の80%が自給自足のバヌアツと、有り余る物で溢れかえる我が国との差は歴然。
だがしかし、幸福度は真逆と言っていいほどかけ離れていた。
「何故そうなんだろう?」是非このことを日本の小学生たちにも考えてもらいたい。
そんな思いがこの10年間、ずっと澱のごとく心の底に溜まっていた。
そして今回、漸くそのチャンスが巡ってきた。
そこで立てたのが、両方の国の小学生同士による文化交流のプログラムだ。
それぞれ互いの生活の様子をつぶさに見合うことによって、グローバルな視点や考えを育て、さらには幸せについて考えてもらおうと言うものである。
その方法はと言うと、至ってシンプル。
ある小学生の朝から晩までの1日の様子をビデオ撮りし、バヌアツへ持って行って小学校で上映し見てもらう。
そして同じように、バヌアツの子どもたちの様子を撮って帰り日本の小学校で上映する、というものだ。
そうすることで、彼らなりに「幸せとは何か」ということについて、自分たちなりに考えてもらえればと思ったのだ。
結論からすると、今回のこのプログラムは両国の小学生にとても喜んでもらえたと同時に、またたいへん意義深いものになったと感じている。
もちろん「幸せとは何か」という問いに対しては答えがある訳でもないし、これは十人十色。
それぞれが個々の価値観や感性に照らし合わせ、考えてもらえばいいことだ。
ただ一つ、これは万人共通かもしれない、と思うことがある。
それは、「幸せになる方法」だ。
これは、10年間かけてバヌアツの人々から、改めて学んだことでもある。
その方法とは幸せのつかみ方であり、受け取り方と言ってもいいかも知れない。
敢えて一言で表すならば、それは「感謝」だ。
実のところ「幸せ」はわれわれの周りそこらじゅうにあるのだと思う。
しかし残念ながら、それは目には見えない。だから感じることが必要、その受け皿が感謝する心だと教わった。
そもそも、バヌアツでキリスト教が伝来する以前のプリミティブな世界では、日本もそうであったように自然崇拝、いわゆる八百万の神々が支配する世界観であり、キリスト教と言えど今まで身体に宿っていた魂まで洗い流すことはできない。
つまりは、キリスト教徒ではあるものの、自然崇拝も無意識のなかでバヌアツの人々の心の奥底に息づいているのだと感じる。
自然、物事、人々など何ものに対しても感謝の気持ちを忘れず、教義に則った神聖な祈りとともに天や神に捧げる。
食事の際にしろ歓迎式にしろ別れの際にしろ、いろいろな場面で祈りを捧げる彼らの直向きな姿を見るにつけ、その信心深さを感じずにはいられなかった。
たとえ物に恵まれないにしろ、彼らから貧しさは一切伝わってこない。
そして何時も笑顔を絶やさない。幸せだから笑顔なのではなく、笑顔だからこそ幸せなのだと気付く。
どんな些細なことからも喜びを感じ取り、それに対する感謝の気持ちを忘れない。
そんな、「しなやかさ」が心の豊かさと笑顔を生む。それこそが、幸せの秘訣なのだろう。
ありふれた日常のこの瞬間、神は細部に宿る。
2011年 02月 20日
バヌアツ訪問記その3
イザベラ・バード
明治初頭に日本の奥地を旅した一人の女性がいる。その人の名はイザベラ・バード。生来身体が弱くある時医者から転地療養を勧められ旅行を始めることになった。そして彼女は47歳の時に来日し、まだ江戸時代の面影を残す日本の奥地、東北や北海道を旅するのである。それも徒歩にて、あぶなっかしいまだ18歳の日本人通訳兼ガイド一人だけを付けて。勿論、彼女以外にほかの外人はいない。現代人の私たちの感覚からすれば、これは想像を絶するような探検旅行であり、その苛酷さを思えば私のバヌアツ訪問などはお話にならないくらいちっぽけなものである。そんな彼女が、この体験を「日本奥地紀行」にまとめたなかで終始語っているのが、日本人の「礼儀正しさ・優しさ・親切さ」に触れ、直感的に人情の美しさを感じ取っている点である。 実は、毎回バヌアツを訪れた際に、ある種なんとも表現のしがたい「なつかしさ」のようなものを感じていた。いま思うに、たぶんイザベラ・バードが日本人から受けた印象と同じようなものではないかと勝手に想像するのである。つまりは、日本人が忘れてしまった「日本人らしさ」である。これは、恐らく西洋文明が流入し経済発展を遂げた国において受ける万国共通の感覚的欠落なのではないだろうか。
確かに文明の利器が入ることで生活は豊かになるが、その代償に失うものがあるのも事実だ。しかし世界のどんな辺境の地であれ、この流れは止めることはできない。グローバルな経済はいろいろな国のありとあらゆる隙間に入り込んできている。厄介なのは、物質的な豊かさは目に見えるものが多い反面、失うものには目に見えないものがあり、静かに音もたてずに消えて行くという点だ。情けなくも、こんな些細な体験からかくも受け止めがい事実を突き付けられ、あらためて「こと」の重大さに愕然とするのである。当たり前のことが知らずのうちになくなってしまうことの恐ろしさを感じずにはいられない。 ところで、ドイツ人青年から投げかけられたあの鋭い質問「果たして彼らに西洋文明を持ちこむことが支援になるのだろうか」に対しての私なりの答えはこうだ。
子供たちに世界をみる「窓」を
世界のどこにいようが、このグローバル経済のある意味「津波」にも似た影響を回避することはできない(携帯電話がいい例)、早晩その日はやってくるのだ。100年以上も前にイザベラ・バードが目撃した、日本の鎖国が破られ西欧化が始まったその様が、いまだに世界の辺境で繰り返されているわけである。あの鎖国に近い状況のブータンでさえ、その変化は少しずつ起こっていると聞く。であるならば、どうやってその流入を防ぐかではなく、どうそれを受け入れるかが問題となってくる。その鍵は「教育」にある。その価値判断をするためにもまずは世界を知ること、開国前夜に多くの日本人が欧米を視察に法を犯してまでも出かけ初めて日本を外から見て理解したように、自国が置かれている状況を把握することにある。そして、われわれもそうであったように西洋文化に憧れを持ち少しくらいカブレてもよいが、やはり自分たちの独自性を認識することがことさら必要に思われる。伝統文化を継承しつつも、受け入れるべきものは受け入れ、そうでないものはきっぱりと断る、そんな態度が取れるようになることを願うばかりである。それには「世界を覗く窓」がどうしても必要になる。実は今年2月の訪問時に学校の校長先生からお願いされていたのは、ネットが通じる環境を整えてくれというものだった。電話回線が来ていないので、パラボラアンテナでも設置しない限り不可能で今回は見送ったのだが、それは「子どもたちにもっと世界を見せてあげたい」という先生達の希望からだった。もちろんパソコンの「窓」からである。しかし、誰もが気づいているように知識偏重の教育での弊害はわれわれも経験済みで、如何に正しい考え方ができるか、どうやって自分たちのアイデンティティーを構築することができるかにかかっている。たかだかパソコンの寄贈ぐらいで、そんな先の大それたことまで考える事はないと言われればそれまでだが、あのきらきらと輝く瞳の行く末はどうしても気になって仕方がない。
異なる文化と触れ合うことで
イザベラ・バードの素晴らしい点は、その行動力は言うまでもないが、彼女の視点に先入観や自分のキリスト教的価値観に囚われるところなく、素直に触れた物事についてナチュラルで鋭い感性をよりどころとして評価しているところだ。そのために旅行中は英国とは全く違う風俗慣習のなかで努めて日本人と食生活をともにし、同じような生活体験を重たうえで、日本の素晴らしいところは評価し、そうでないところも指摘している。そういう意味においては、異なった文化を受け入れる態度が彼女の秀でた資質としてあったと感じられる。比べるのもおこがましいがそんな才能もなく、無意識ではあるにせよ気がつけば色眼鏡をとうしてバヌアツを見ている自分に「はっ」とすることしきりである。 こうして考えてみると、自分が支援に行っているのか、はたまた支援されているのか、はなはだ疑問になってくる。まあ、そうやって内なる世界にバランスを保たせるのも、現代社会に毒された私にとっては、良いリハビリになっているのかもしれない。 いくつまで続けることができるかわからないが、とうぶん私のバヌアツ通いは終わりそうにない。

写真 : バヌアツマーケットの様子 |
2011年 02月 20日
バヌアツ訪問記その2
2011年 02月 20日
バヌアツ訪問記 その1
バヌアツってどんな国?
2月2日の朝、私は南太平洋に浮かぶ小さな島の空港に降り立った。雨上がりの滑走路を歩いていると湿ったなま暖かい風が頬をなでる。今回が私にとって3回目の訪問となるこの国の名前はバヌアツ共和国、南北にわたる83の島々からなる人口わずか24万あまりのメラネシアに属す小さな島国である。 この聞きなれない国の場所は、と言うと、南にニューカレドニアと東にフィジーと言えばなんとなく想像がつくかもしれない。主な産業は農業と観光、といっても農村部ではコプラ(ココヤシの果実の胚乳を乾燥したもの)の生産があるが、ほとんどの島民はほぼ自給自足の生活である。公用語はビスラマ語、英語、仏語の3つだが、地方の言葉は100以上存在する。ビスラマ語が普及する前は他の島の人との疎通ができず、そのため絵文字文化が生まれたという。しかしながら、なじみがないようで「バンジージャンプ発祥の地」「世界で一番幸せな国」というフレーズを聞けば思いつく人もいるだろう。 富山からは飛行機を4回乗り継いでその飛行距離およそ1万キロ、そんな最果ての地にも思われるこの国を訪れるきっかけとなったのは、今から6年前のことである。
バヌアツ訪問のきっかけ
私が属するあるクラブの姉妹クラブがオーストラリアにあり、そのクラブがバヌアツで一番大きな島であるサント島の奥地にある小さな村に、診療所を建てるので協力してくれないか、と頼まれたのが事の発端である。
バヌアツに到着して
最初に訪れた時は真夜中、飛行場をでるやいなや漆黒の闇に包まれた時は「とんでもないところに来てしまった」という感が一気にわいてきた。でこぼこ道を、もうとっくにお目にかからない日本製のおんぼろ車におしこめられ、窓から入ってくる湿っぽい夜風に吹かれながら、聞こえてくるのは茂みの中からの不気味な犬の遠吠えだけである。一夜あけると、昨晩の不安も解消。そこには朝の長閑な、田舎の風景が広がっていた。しかし人々の顔が茶褐色の国は初めてで、よく見ると行きかう人の中には裸足の人も大勢いる。服装はTシャツにズボンが一般的で、民族衣装らしきものは一切見かけない。(今回のわれわれのワゴンの運転手も裸足であった。)
いよいよ目的地の村まで
目的地の村までは空港から100キロあまり。中心地から離れればもう何もないので、まずは買い出しである。ペットボトルの水を1ケースとあとは・・・と言いたい所だがとくに買うようなものはない。大きな市場が開かれているので覗いてみる。ここならではの熱帯の産物がところせましと並んでいるが、大きな「こうもり」も売っている、聞けば食用だそうだ。わずか100メートルほどのメインストリートを抜けると、ほどなく道の両側はヤシの木やジャングルとなる。交通量は全くと言っていいほどないのだが、奈何せん道路は舗装されておらず、あちらこちらに大きな穴があいていてスピードは出せない。それどころか穴を越えるたびに、頭をクルマの天井に打ちつけそうになる。目に入るのは空の青と森の緑だけ。なぜか落ち着いた気分になるのは、この単調な風景と時折見かける村人がにこやかなせいかもしれない。約2時間余りかけようやく目的地に到着する。

村の生活
村の小さな診療所には、そこを管理する看護師さんと村人たちが食事を用意して待っていてくれた。この島には常駐の医師がおらず、ここは言わば助産院のようなもので、10キロ以上も離れたところからお産が近づいた妊婦たちが歩いてやってくるところなのだ。かつての日本でもそうだったように、新生児の死亡率が高いことが窺われる。用意されている医薬品は、3種類ほどの抗生剤と鎮痛薬などごく僅かだが、もちろんマラリアの薬はおいてある。 診療所の視察もほどなく終え、年配の女性たちが輪になってバナナの葉で家の屋根を編んでいるのを見ていると一人の女性が近寄ってきた。そして自分がこの村の小学校の校長であることを告げると、できる事ならば子どもたちの学習の支援をしてもらえないかと切り出された。この小学校には約100人の生徒がおり、寄宿舎もある。しかしながら、一か月1000円にも満たない学費が払えず途中でやめざるを得ない者もいるという。そういったなかでも上の学校に進もうとする生徒もいるわけで、教科書も満足に行き渡らないにもかかわらず、もはやコンピューターに触れておくことは必須だという。だが、電気はおろか飲料水も雨水を利用している有様で、基本的なインフラは一切整備されてない。何とか役に立ちたいのは山々だが、「一体どうしたものだろう・・・」という想いが頭を過ぎる。まさかこれがきっかけでこの後も訪問することになるとは、この時は夢にも思っていなかった。(つづく)

2007年 01月 01日
バヌアツ訪問
訪問の目的は二つあり、その一つはわがクラブが今年10周年を迎えるにあたり、ツインクラブであるケントホーストロータリークラブにその記念例会に出席のお願いをすること、もう一つは昨年の6月に完成したバヌアツ共和国のサント島にあるベイネクリニックを視察に行くことでした。
この診療所はケントホーストのロータリアンの方々が現地に泊り込み村の人々と協力して建てたもので、私たちも資金協力をさせてもらいました。
バヌアツは南太平洋に浮かぶ大小80の島々からなる人口僅か20万人の、「地球上で最も幸せな国」に選ばれた共和国です。今回、首都のあるエフェテ島から300キロ程北に位置するサントという島を訪れました。ここでは、バヌアツに二つあるロータリークラブの内の一つ、サントロータリークラブの例会に出席させてもらい、歓迎をうけるとともに親交を深めてきました。
さて、目的の診療所はというと、島の中心地よりさらにジャングルのデコボコ道を約80キロ北に分け入ったところのベイネ村にあります。電気はおろか、水道さえない自給自足の村ですが、その分自然に恵まれ、とりわけ住む人々の笑顔が素敵なそんなところです。われわれは視察とともに、日本より持参したTシャツや折り紙、そして700本あまりのボールペンを近隣の小学校に配り終え帰途に着きました。
日本に帰り感じることは、支援のありかたの問題です。いかに今の自然環境を守り、自立を促すお手伝いができるのか、多くの宿題を頂きました。あの笑顔に会いに、またいつの日か戻ってきたいと感じた訪問でした。
